1689(元禄2)年327日(陽暦517日)、松尾芭蕉は、弟子の河合曾良をともなって江戸深川の芭蕉庵を発ち、96日岐阜県大垣に到着までの142日間にわたって旅をしました。

  515日、陸奥国(ムツコク)尿前の関(シトマエノセキ)から出羽国(デワコク)堺田に入り、尾花沢の鈴木清風を訪ね歓待を受けそこで、10日間滞在しました。

   527日、山寺に詣で、大石田、新庄を経て、63日本合海(モトアイカイ)で舟に乗り、最上川を下り、清川で下船しました。

 羽黒山の手向(トウゲ)まで歩き、図司呂丸(ズシロガン)こと近藤左吉を訪ねました。呂丸は、大石田の高野一栄からの紹介状をあずかった後、羽黒山本坊の別当代会覚(エカク)、の指示を仰ぎ、一度下山してから芭蕉を案内して再び南田にまで登りました。


羽黒山

  63日羽黒山に登りました。

  64日、芭蕉と曾良は、会覚阿闍梨(アジャリ)の心からのもてなしをうけました。当時の南谷別院は、壮大な建物であったと言われ、今は苔むした礎石が残るだけですが、今もなお当時の幽寂なおもかげをしのぶことができます。

 

    ありがたや雪をめぐらす風の音  芭蕉

 この句はのちに推敲して次の一句となり完成しました。

    有難や雪をかほらす南谷  芭蕉

 

  65日、羽黒権現に参拝しました。

 

月山

  68日、別当代会覚らの勧めもあり、修験者が登る神の山なので、宝冠をかぶり、木綿しめをかけて装束となり、月山に登りました。身が凍える寒さ、登るきつい岩の道、頂上に着いたときには、日が沈み、月が現れました。月山の頂上には芭蕉のこの句碑が立っています。

雲の嶺いくつ崩れて月の山  芭蕉 


湯殿山

   羽黒山南谷より月山山頂に登り、小屋に笹の葉を敷いて眠り、翌日6月9日に湯殿山を参拝、月山山頂にとって返し、南谷まで帰ってきました。

語られる湯殿にぬらす袂かな  芭蕉

湯殿山銭ふむ道の泪かな  曾良

  その時、鶴岡の門人長山重行と酒田の門人潜淵不玉が訪ねて来て、師の旅の苦労をねぎらいました。こうして9日には南谷の別院で句会が開かれました。

 

   610日、一行は羽黒をあとにして、鶴ヶ岡の長山邸に入りました。

 

  西行や能因の足跡を辿り、松島や象潟の風光に憧れ途々での景勝に遊んだこの旅は芭蕉にとって「死と再生の世界」を求めたものといわれています。そのため、出羽三山での一週間は、芭蕉の旅の大きな目的地になっていたでしょう。今、「おくのほそ道」は、日本文学を代表する国際的な作品となっています。

 

  参考文献: 羽黒町観光協会 

          「門前町宿坊街~羽黒参道 羽黒修験の歴史を歩く」

          東山昭子「庄内の風土・人と文学」



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